栗本慎一郎「新しい世界史の教科書」(仮)の編集作業もいよいよ佳境。。。あとがきの一部を公開。。。!
こんにちは。栗本慎一郎先生の「新しい世界史の教科書」(仮)、編集作業も佳境に入っています。
タイトルが最終的にどうなるか。。。そのへんがちょっと心配ですが、でも、内容は過去の歴史系の著作の集大成という感じで、
栗本経済人類学を学ぶうえでもホントに大事なエッセンスが凝縮されています。
できれば書籍の専用サイトも立ち上げたいと思っていますが。。。ここでは少し先駆けて、「あとがき」の一部を公開します。
以前に紹介した一文よりもさらに踏み込んだ形で、栗本先生の生命観、歴史観がつづられているはずです。
過去の本のあちこちでちりばめた地球史についての指摘は、読者が過去に優等生であればあったほど混乱を与えてしまったはずだ。その構築された通説での世界観をゆるがせたり傷つけたりさせてしまったはずだから、それらをまとめると地球上の本当の歴史はどうなるはずかということを、つまり真実の全体像を示しておきたかったのだ。
要するに本書は少なくとも半世紀以上の、経済人類学による真実に対する愛と追求の末の結論を、一度、筋の通った形で後進に伝えておこうというものなのである。それだけである。
ただ、これにより、近代市場社会は人類普遍の社会ではないという経済人類学者カール・ポランニーの喝破も、古代社会の本質への見通しも、江戸時代の人口問題も、不思議な縄文社会の王国も、巨大前方後円墳の謎も、日本とヨーロッパの経済成長の基盤も、ヨーロッパ史における猫狩りと魔女狩りの愚かさも、今も続く中国の帝国主義の根源も、アラブ社会とイスラエルの激突も、みな有機的につながっているものとして理解できるはずだ。
一見ばらばらに見えても世界の動きの根源は一つである。ばらばらに見ているからばらばらに見えているだけで、われわれが生きている世界の動因は間違いなく一つだ。われわれは、決して個別ばらばらの生命を営んで生きているものではない。そんな力は今の人間にはない。
そもそも近代という事態あるいは現象自体が、すべてを合わせて一つの生命体のようなものだと考えるべきだ。実はわれわれは現象を作り出すために生きているのだ。生かされていると言っても、そう大きな間違いでもない。
私が過去にいくつかの場所で、あるいはいくつかの機会で、生命の意味は生きること自体にあると言ったのは、ほかでもないこういうことだったのだ。そこに深遠な意味をこめるつもりなど全くなく、直截的に述べただけのことだった。
80年代にいろいろくどくどと「意味と生命」について論じたりしたが、意味も生命も静的なものでは絶対にないぞ、また動的なことでなくてはならないぞ、と強調した。要するに単純に生きることそれ自体が意味だと言ったのに過ぎない。
存在とはEXISTENCEではなくBEINGなのだと言ったのも同じことだ。私はしばしば科学哲学者マイケル・ポランニーの言を借りて論じてきたものだが、今となってあっさり言えば、彼の言葉は私にとって勉強したから理解したというようなものではなく、勝手に向こうから飛び込んでくるように私の胸に響いたものだった。そういうものなのだ。
マイケル・ポランニーの前には日本の文学者坂口安吾の日本史論にただただ納得共感したことがあって、おそらくきちんと分析すればマイケルと安吾に知的共通点があることが証明されるのだろうが、ここでもまた外的証明など何の意味もないだろう。
発売はたぶん、3月末になるかと思います(書店に出回るのは4月初旬かな。。。)
タイトルその他、詳細は決まり次第、このブログや「生命科学情報室」のサイトでもお知らせします。「歴史って、そもそもなんだろう?」「生きてるって、生命って何だろう?」。。。そんな心のひっかかりが少しでもほどけるような一冊になることを願っています。