気になる人、アナーキスト・大杉栄のコトバ、「道徳の創造」をここに再掲。。。!
歴史上の人物のなかではアナーキストの大杉栄が一番好きですが、そもそもアナーキストっていまや絶滅種みたいに考えられてますよね?
でも、本当にそうなんでしょうか? 彼の遺した言葉のなかでも好きなのが、次の一文。
過去にこのブログでも紹介したことがありますが、その一部を再掲しましょう。
社会のある少数者の間に、その道徳観念が全く変わってしまう時代がある。
かつては最も道徳的であるとせられていた事が、こんどは反対に、最も不道徳なことであるとせられてくる。
けれども史家の教えるところによれば、この危険なる時代においてこの危険なる人物によって、歴史は常に向上の一転化をするのだという。
道徳を創造するんだ。
幸いにこの種の時代に生れて、この種の人物の一人に数えられる。
誠に千載の一隅である。
かつての危険思想だったアナーキズムも、大杉さんのような人がタネを蒔いたことで、いまの時代、それほど危険な思想ではなくなっています。
大杉さんのように投獄されたり、官憲の手にかかって虐殺されてしまうようなことも、ほぼなくなりました。
だから、世の中が良くなったとか、平和になったと言うことではなく、一人一人、誰もが言い訳せずに、自分の生き方が追求できるようになったということです。
そんなとても自由な時代になって、でも、そういう時代の空気と引き換えに魂が抜かれてしまったというか、
生きる気力が底辺にまで下落してしまったというか。。。そういう皮肉なところがいまの時代の特徴なんでしょう。
昔は殺されるから、捕まるから、自由を、生の拡充を追求できなかった。
いまは殺されないし、捕まらないけれど、気力が減退してしまって、自由どころじゃない。笑
本質的には何も変わっていない? だとしたら、なおさら自分次第と言うことになりますね? 時代のせいにはできないでしょ?
道徳を創造するんだ。
何か危険な運動をしたり、非合法の活動に手を染めるのではなく、普通に坦々と暮らすなかで、僕は大杉さんの遺志を継ぎたいと思っています。
僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されるとたいがいはいやになる。
理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくともかわいい。
しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々いやになる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。